No,98 books📙【北山修 最後の授業】 「論考 表の世界と裏の世界から臨床を振り返る」 

【論考 表の世界と裏の世界から臨床を振り返る】

 

真面目な話です。北山修先生の最後の授業を読んで、非常に感銘を受ける点が多々あったので論考します。

興味の無い方は割愛ください(*´Д⊂ヽ

 

 

*北山修 最後の授業
https://www.amazon.co.jp/最後の授業――心をみる人たちへ-北山-修/dp/4622075431

                                                                    

 

 北山修先生の本を読み、論考。非常に多くの示唆がありためになった。

 現代社会で適応して生きるということは、表の世界に適応していきているということである。表があれば裏がある。表裏一体であるから、世界には裏の世界があり、言葉には裏の意味がある。

 裏について、北山先生はこのように書いている。裏にはこころを表す意味があると。うら恥ずかしい、うら寂しい、うらみ、うらやましいなど。これは「裏がやんでいる」という意味であり、日本語ではとても味のある言葉であるという。しかし、この裏はあってはならないものとされ、裏という裏に光をあて、裏を置いておく場所がなくなっているのが現代社会である。社会生活に適応するということは、裏の気持ちを押し殺し、表だけで生活することを強いられる。常に優等生でいなければならないのである。裏の気持を表に出すと、他者からバッシングされたり、諭されたり、または仕事を失ったりするだろう。そこには野心も入るかもしれない。「出る杭は打たれる」のである。そして、裏を出さずに生活をすることがいわば「大人である証」という価値観が社会的に築かれているため、裏を出すことは「わかってない」、「自分勝手だな」といった評価と結びつきやすいのである。しかし、本来裏の言葉こそ本心なのである。

 臨床心理士はこの裏の言葉を取扱う。普段優等生の仮面をかぶって生活している人が息苦しさを感じたとき、裏の世界を押し殺しすぎているのである。もしくは、それを見つめることができなかったり、表の世界に過剰適応しすぎてしまった結果であるかもしれない。普段いえないことを意識下から無意識下まで追いやってしまっている、これを精神分析的にいうと「抑圧」というのであるが、これが強すぎると心理的な問題へと発展していくと考えられている。この裏の世界を表出する場が必要である。それは我々の世界でいえばカウンセリングであるが、ある程度の水準のものであれば飲み会での愚痴や“ぶっちゃけトーク”で表出することも可能である。また、お笑いやブラックジョークは裏の世界をユーモアで表現したものであり、これは非常に優れた裏の表出である。そのような意味では心理カウンセリングは世の中にあふれているのかもしれないし、無意識のうちにカウンセリングの仕合いをしているともいえる。

 では臨床心理士のカウンセリングはそれらとはどのように違うのかというテーゼが必然と提出される。われわれは、その問題を取扱う時にその人の人生を探索する、そして人生をもの語ることが人生を再構成し人生を形成することを信じている、見えない問題を見つめ続けることによりイマジネートし夜空で星座を創造するような作業をつねに心の問題に対して行う、曖昧なものをあいまいなまま受けいれそれを保つことをつづけ、答えがないものに答えを与えようとしない。といった点で特殊性や専門性が発揮されるのである。このことが維持されることにより、その場での対処療法としての愚痴り合いや“ぶっちゃけトーク”ではなく、根本療法としての心理カウンセリングと成り得、人生を考えることができ、語り直し、紡ぎ直すのである。これがいわゆる古典的な心理カウンセリングである。このような作業はやはり高度な専門技術を必要とされるのであろう。しかしながら、このような心理療法は非常に限定的である。生活がある程度の適応を見せており、なおかつ自分の人生を見直したいと思う人は、実際にはそうそういない(実際にはいるのかもしれないが、日本の文化下では抑圧される)。一方、生活がうまくいっていない人、不適応状態にある人は人生どうのこうのといっている場合ではないわけである。その為に、現在では認知行動療法や、SSTといった心理療法が必要とされているのであるが。(ここでは話がズレるので割愛する。)では、これらの古典的な心理療法が生み出して来たカウンセリングマインドは意味を失うのであろうか。それは「不明」である。意味を失うこともあるかもしれないし、失わないかもしれない。必要だと思う人がいれば必要ではないと訴える人もいるかもしれない。しかし、我々は必要だと思っているし、そのほかの療法においてもこれらのカウンセリングマインドは常にコアな部分として存在し続けている。これらがない心理療法はやはりどこか空虚であり、片手落ちなんだと思う。そして、これらを維持した態度で、物語の中で居座り、生き残り、待つのである。慌てずに時間を掛け何か変化が起きることを信じて待つ。しかし、ただ待つのではない。この”待つ”は実に能動的な作業である。われわれの治療的な営みはこの時間と空間を提供することにあるのである。

 そして、これで最後にしようと思うが、上述した治療的営みの中で治療者は3つの役割を担う(William Ronald Dodds Fairbairn)。一つは耳を傾け話を聴き寄添うことによりクライエントより愛され求められること、一つはもの語りのなかにある失望や幻滅によりクライエントより憎まれ嫌われること、そしてもう一つはそれを体験しているクライエントの自我を支えることである。その為には、セラピストは自他ともに誠実であり、クライエントと共に揺れつつも揺るぎない芯があり、幻滅や失望に伴う怒りや悲しみといったネガティブな感情を抱えて、人の悩みをおいておく懐の深さが必要ということになる。この点において、さまざまな心理療法の流派は統合されていっているのが現状であると私は考える。さて、今の自分はできているのだろうかと再び自分の臨床を振り、再び自問自答するのである。その葛藤は一種、クライエント体験であるのかもしれない。

 

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