No,117 Study about Battle of Peleliu   「ペリリュー島の悲しい歴史 」
No,117 Study about Battle of Peleliu   「ペリリュー島の悲しい歴史 」

No,117 Study about Battle of Peleliu   「ペリリュー島の悲しい歴史 」

今回のパラオ編ラストに

ペリリュー島の戦いをまとめて終わりにしよう

 

悲しい過去の話

 

自分の勉強のためにまとめるけど

 

興味がある方は一緒に勉強しましょう(*^_^*)

 

と言っても、文献等に当たったりすると大変な労力になってしまうので

 

ネットの情報をもとに記事を作成させていただきます

 

それに、ちょっと調べれば膨大な情報が出てきますし

 

よくまとまったサイトもあります

 

ですので、概要と大切なところだけ

 

ちょこちょこっとまとめます

 

【目次】
クリックするとその記事まで飛びます
【ペリリュー島の戦いとは】
【両軍の戦力】
【両軍の被害】
【日本とパラオの関係】
【おわりに】
【引用・参考サイト】

【動画資料】

 

 

【ペリリュー島の戦いとは】

 

太平洋戦争中

 

パラオ共和国にある

 

南北9km、東西3kmという

 

小さい島、ペリリュー島にて

 

1944年9月15日から

 

1944年11月25日までの

 

73日間にわたって行われた戦い。

 

日本軍の指揮を執ったのは

 

中川州夫(ナカガワクニオ)大佐

パラオの戦争遺跡は凄すぎる!(43) ~「闘将」中川州男陸軍大佐~

 

一方アメリカ軍は

 

ウィリアム・リュパータス海兵少将率いる

リュパータス少将とペリリューの戦い

 

第一海兵師団。

 

当初、米軍はペリリュー島の制圧は3日で終わると考えていました

 

それは、日本がそれまでの戦いで

 

万歳突撃をしていたから。

 

ペリリュー島でも日本軍はすぐに万歳突撃をはじめ

 

戦いは終わりを迎えるだろうと考えていたのです。

 

それに、火力の違いもありましたしね

 

日本は米軍の6分の1以下の火力だったそうです(諸説あり)

 

しかし、ペリリューでは違いました。

 

日本軍司令部はこの戦いから徹底的な持久戦を要請

 

日本軍はサンゴ礁でできておりコンクリートなみに堅い地質を利用し

 

島全土を要塞と化し、米軍の戦いに備えていました。

 

その結果、米軍は想像以上の苦戦を強いられ

 

3日で終わると予想していた戦いは

 

2か月半、73日にも及ぶ激戦となったのです。

 

 

【両軍の戦力】

 

<日本軍の戦力>

総員:10,500名

第14師団歩兵第2連隊

連隊長:中川州夫

小銃:5,066

九六式軽機関銃:200挺

九二式重機関銃:58挺

九七式中迫撃砲など:200門

九五式軽戦車:16両

 

<アメリカ軍の戦力>

総員:48,740名

第1海兵師団:24,234名

第81歩兵師団:19,741名

付属海軍部隊:4,765名

指揮官:ウィリアム・リュパータス海兵少将

小銃・自動小銃:41,346挺

機関銃:1,434挺

拳銃:3,399

火砲:729門

戦車:117両

バズーカ砲:180基

 

日本軍の戦力は米軍の6分の1以下(諸説あり)。

 

対戦前

 

リュパータス師団長(少将)は

 

「こんな小さい島(南北9km、東西3km)の戦闘は2、3日で片付く。諸君に頼みがある、私への土産に日本軍守備隊指揮官のサムライ・サーベルを持ち帰ってもらいたい。」

 

と豪語

 

第1海兵連隊長

 

ルイス・ブラー大佐に対しても

 

「今回は君の昇進の為のような作戦だ、海軍十字章と准将の階級章が同時にもらえるぞ」

 

と話していたとのこと。

 

日本は「海軍乙事件」という事件にて

 

機密文書を奪われ

 

兵力等をかなり正確に推定されていました

 

上陸前には徹底的に爆撃

 

空から海から集中砲火もしています。

 

しかし、ブラー大佐は1週間に及ぶ

 

航空写真や偵察写真を確認したところ

 

師団長は楽観的すぎるという考えていたそうです。

 

どうやらリュパータス師団長は

 

戦争の後遺症か、もともとなのか定かではないですが

 

パーソナリティにやや問題があったとのことですね。

 

米軍の司令塔に不安があったようです。

 

 

【両軍の被害】

 

<日本軍>

戦死者:10,695名

捕虜:202名

生存者:34名

→その後34会(ミヨシカイ)を結成
・ペリリュー島の戦いで生存者が講演「“狂気の戦場”ではなかった」

http://blog.goo.ne.jp/1079sasa/e/7f8c57325fd967030e97b8f6812cdf55
生存者の一人である土田喜代一さんによる講演
「狂気の戦場」という表現は当事者の方にはどうやらマッチしていないようです。
「やっぱり、愛のために戦うのであってねえ、憎しみでアメリカ人を殺せないよ」

の言葉は印象深いです。

 

<アメリカ軍>

戦死者:2,336名

戦傷者:8,450名

その他に精神に異常をきたしたものが数千名いたとのこと

→なお、被害総数には複数ある模様。Wikiを参考にしました

 

<その他>

一般人の死傷者:0名

 

戦死者の数を見ると、圧倒的に日本軍が多いように感じます

 

しかし、戦傷者や精神的ダメージを受けた方を含めると

 

米軍の被害も相当なものです

 

第二次世界大戦の中でもトップ5に入る被害だったとか?

 

 

【日本とパラオの関係】

 

パラオは非常に親日

 

それは、日本の統治時代の貢献があります

 

日本はインフラの整備をおこなったり

 

教育を行いました。

 

農業を伝え、魚の缶詰や鰹節などの加工技術、工場を作り

 

雇用を生み出します。

 

日本の統治以前は支配と搾取の歴史だったパラオ

 

それが日本の統治時代は

 

自分たちの生活が豊かになっていく

 

そんな時代でした。

 

文字にすると

 

日本がインフラや教育をおこなったから親日国になった

 

となりますが。。。

 

パラオの親日は

 

そんなレベルではないように感じます。

 

これは自分の考えだけど

 

個人的な結びつきが強かった

 

のではないでしょうか

 

同じ目標に向かい

 

共に働き

 

共に泣き

 

共に喜ぶ

 

一人と一人が

 

お互いにお互いを認め

 

仲良く生活をしていた

 

仲間意識で満たされていた

 

それがパラオと日本の親日の根源だったのではないかなぁ

 

と、いろいろなサイトを見ながら勉強していると

 

そう感じてきます。

 

その証拠?ではないですが

 

中川州夫さんの美談も交えて紹介

 

現地の人の死傷者0名という事実もあり

 

信ぴょう性は高い美談だと思います。

 

 

以下、引用

戦前・戦中に生まれたパラオと日本との深い絆

 

第二次世界大戦中、パラオのペリリュー島は、日米の激しい戦闘の舞台となりました。
フィリピンが近くにあるので、アメリカはこの島を落としにかかり、日本軍の数百倍の兵器と、圧倒的な数の兵士を送り込んで来たのです。
この時のペリリュー島において、現地のパラオの人々と日本人兵士との、心の絆に関する深い逸話があります。

この地にアメリカ軍が乗り込んで来ると判ったときに、パラオの代表者数名が、中川州男大佐を訪ねてきました。
彼らは「自分たちは死ぬ覚悟は出来ているから、日本兵と一緒にアメリカと戦わせて欲しい」と言ったのです。
ところが、中川大佐は激高してこう叫びました。「誇り高き帝国軍人が、貴様ら土人なんぞと共に戦うことができるか!出て行け!!」と。

その言葉を聞いた島民たちは裏切られたと思いました。日本人は心の友だと思っていたのに、やはり本心では自分たちを見下していたのだ、と思ったそうです。
そして、ペリリュー島のパラオ人たちは全員船に乗せられて、非戦闘地域に疎開させらることになりました。
パラオの島民たちが船に乗り込む時になって、日本軍の兵士は誰一人として見送りに来ない……、島民たちは愕然としました。

ところが、その船が岸から離れたとたんに、日本兵の全員が砂浜に一斉にどっと走って出てきたのです。彼らは、島民たちが全員船に乗るのを隠れて確認していたのでした。
そして、日本兵たちは皆で手を振りながら、島民と一緒に歌った日本の歌を歌い出したのです。涙を流していた者もいました。
その先頭には、あの中川大佐の姿がありました。
その時、島民たちは、あの「土人」という言葉は、自分たちを殺さないためにわざと言ったのだということを悟り、号泣したのです。

 

*Youtube

小学生にもわかるように優しく表現されています。

日本の視点に立った動画なので、米軍や前植民地時代は悪く描かれています

あと、感情への訴え方が強いので注意してみてください。

自分も涙ぐみました~

なお、いい点と怖いなぁ~と感じた点を一応箇条書きで示しておきます

【歴史秘話ヒストリア】 その時歴史が動いた!「ペリリュー島の戦い」パラオの国旗に秘められた憶い

 

*動画を見たあとに考えた怖いなぁーという点

・白人と違って

→白人と違って日本人はという表現

・神社を作りました

→神社を作ったのは宗教がらみなのでそれが良いかどうかはわかりません

                      ・アメリカ軍は自分のへいたいさんの死体だけ片づけていました

→アメリカ軍は心無い軍であることを示唆。そんなことはありません。

皆同じ「人」です。優しいときもあれば怖いときもあります。

 

*動画を見たあとに考えたいいなぁ~という点

・へいたいさん

日本兵もアメリカ兵も「へいたいさん」と表現されている

戦没者への敬意は必要だと感じました

・わかりやすい

→そのまんま、説明や挿画など非常にわかりやすいです

 

*勉強した後に知った疑問・不明点

・国旗の由来

パラオの国旗が日本の国旗に似せられたという話が多いですが諸説あるようです。

たしかに国民の方の中には国旗も日本の国旗に似せてて作ったと考えられてもおかしくないほど、日本は感謝されている国だと思われます。

しかし、政治的にそのような事実はないという意見もあります。

ですので、国旗が日本の国旗に似せて作られたという説明は

自重した方がよいかもしれません。

 

ちょっと余計な話も含みましたが

 

以上のようなことから

 

パラオの方々の親日は今も受け継がれているのではないかと思います。

 

 

【おわりに】

 

パラオ、ペリリュー島

 

今はのどかなよき島でしたが

 

大変な激戦地であったことを知りました。

 

不勉強なもので、先に勉強しときゃいいものを

 

帰ってきてきてからの勉強。。。

 

次回パラオに行くときは

 

今回学んだ知識と共に慰霊に訪れたいと思います。

 

日本兵、アメリカ兵

 

それぞれの祖国を想い

 

家族や友人を案じつつ

 

ペリリューでの戦火に散った

 

両軍の戦没者の方へ

 

深い敬意を捧げます。

 

また、現在の日本の平和が

 

戦没者の方々の犠牲の上に成り立っていること

 

今再び認識を新たにし

 

戦没者の方々へ心からご冥福をお祈りします。

 

 

【引用・参考サイト】

戦史入門、パラオの戦争とはなんだったの?

 

*never まとめ
忘れられた戦い。日本軍の戦法を変えた【ペリリュー島の戦い】

【ペリリューの戦い】日本人が知らなければならない大東亜戦争の真実

 

*ウィキペデア
ペリリューの戦い

 

*この国を建てなおすー日本の誇りを取り戻す

ペリリュー島の戦いでの生存者が講演 「"狂気の戦場"ではなかった」
 

・空のかけらライブラリ

ルパータス少将とペリリューの戦い

 

・さざなみ壊変

狂気の戦場パラオ・ペリリュー戦跡 洞窟内に残る凄まじい火炎放射の跡を見た

 

・ヤフー知恵袋

軍人のランクを教えてください

 

・ひろむのメモ帳ファイル

日本の統治時代が一番良かったと語り継がれるパラオ共和国(その1~8

その1

その2

その3

その4

その5

その6

その7

その8

 

*弥栄の会(イヤサカノカイ)

戦前・戦中に生まれたパラオと日本との深い絆

 

*自分で確かめたマジな近現代史・グルメな蕎麦・キレイなお花さん

パラオの戦争遺跡は凄すぎる!(43) ~「闘将」中川州男陸軍大佐~

 

・ピースあいち

パラオで考えたこと(その2) 激戦の島ペリリュー島

 

 

【動画資料】

 

【歴史秘話ヒストリア】 その時歴史が動いた!「ペリリュー島の戦い」パラオの国旗に秘められた憶い

 

ペリリュー島 終わりなき持久戦

 

狂気の戦場 ペリリュー~“忘れられた島”の記録~(NHK)

 

*ペリリューの戦い PELELIU WAR1-7

 

*ペリリューの戦い PELELIU WAR 2-7

 

*ペリリューの戦い PELELIU WAR 3-7

 

*ペリリューの戦い PELELIU WAR 4-7

 

*ペリリューの戦い PELELIU WAR 5-7

 

*ペリリューの戦い PELELIU WAR 6-7

 

*ペリリューの戦い PELELIU WAR 7-7

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